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2015年10月 2日 (金)

光陰矢のごとしの日々。

10月に突入し、雨風のおかげでまた一段と涼しくなってまいりました。
(晴れると日差しはまだまだ強烈ですが。)
ぼちぼちと映画感想は残していたのですが、
どうしても怒りが表に出てしまって;;
とてもこれは出せないなあ、と思っているうちに、
あれよあれよと日が過ぎてしまいましたm(_ _)m。
時間もなければ体力もないというないないづくしなので
もうあっという間に時間だけが過ぎる日々ですが、
少しさかのぼって、映画メモだけでも覚えとして、
改めてアップしておこうと思っております。

先日は遅い遅い夏休みで関西に足を伸ばしてきました。
もう夏は過ぎて秋だよ~と毒づいていましたら、
初日は思いっきり夏の日差しで、
すみません・・・と天に向かって謝る心持でした(何故;;)。
旅の話も置いていくつもりですが、
今日は旅の終わりにゲットした本から
一言いただいていきたいと思います。
我が意を得たり、というか、
ずっと心の底で思っていたところを
言葉で見せていただいた、という感じでありました。
(具体的に発したところ、意図するところが
全く同じではないとは存じておりますが。)
京都の地元では、「京都」と呼ばれる範囲が
存外狭いものと聞いてはいましたが、
いろいろあるんだなあと・・・。
この本が書店の(多分)ベスト1になっているところも
また奥深い、スバラシイと思いました。
旅に出たら地元の本屋さんめぐりははずせません。
毎回荷物が重くなって困っているのも事実ですが・・・(^^;)。

ということで、こちらの本。
『京都ぎらい』井上章一著 朝日新聞出版 (朝日新書)

この方の本を読むのは始めてでしたが、
どこを向いて斜めになっているのかわかるようでわからない
(すみません悪意はないです、多分褒めてます;;)
飄々とした奥深さがなんとも素晴らしいものでした。
本編も楽しませていただきましたが、
思いがけなくおお、と思ったのは最後のあたり。
この辺りがお話のメインではない気がします、念のため。

 明治政府ができる前の象徴には値打ちがない。
 そう言わんばかりのかまえをみせる現政権に、私は鼻白む。
 もちろん、京都の文化からも、国民へ強制する要素をえらべと
 言いたいわけではない。
 嵯峨の文化項目を、私が国家的な象徴にしたがっていると、
 誤解をされるのはこまる。
 私は故郷の嵯峨を、こよなく愛している。
 そして、愛する嵯峨の何かが人々におしつけられ、
 怨嗟の的になるのは、たえられない。
 (中略)
 けっきょく、現政権の歴史展望は、
 明治より前にとどかないのかと、がっかりする。
 
 

 (ほかの箇所にもいちいち膝をうっておりましたが、略m(_ _)m)

みやこびととは程遠い、地方の片隅に生まれ育った私でも
(きっぱり地方なので、都会に特に憧れも引け目もない幸せな人間です^^;)、
ずっと違和感をもっているのはこのあたりなのでした。
この国の歴史はたった100年と何十年かそこらなのか!!と。
あげくは、戦後の歴史はなかったことのように無視の一手、
明治バンザイ、戦前をやりなおしたいという意思(としか思えない)
冗談ではない。
この国の文化も営みもそもそも言葉さえ、
中国や韓国から渡ってきたものなくして今の日本はなかった。
日本の心のふるさとといわれる
(そういうキャッチフレーズを見かけました;;)
奈良や京都の文化など、
どれも渡来人や渡来文化を受入れ、
混じり合って出来上がっていったもの。
本気でクニの全てが潰されかねない。
本当に、本気で、愛する故郷が近い将来に消えかねない。
一刻もはやく踏みとどまらなければ!と
真剣に憂い、心を痛めている方は多いと思います。

ああ、また怒りが増幅してきそうで、申し訳ありませんm(_ _)m。
では、今日はこの辺で。

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