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2009年3月16日 (月)

オーストラリア再見。

ようやく2回目を見てきまして、個人的な混乱が収拾しました(^^;)。
この映画の場合、つくづく「先入観」は邪魔でした。
ネタばれは極力避けてはいたのですが、
できれば全く予備知識のない、白紙で見た方が良かった気がします。
(毎度のことですが気がつくのが遅いです。;;)
以下だらだらと長くなってしまいましたので、
お時間と忍耐力のある方だけどうぞ。

初見のときは、最後の終わり方で
ん??と思い、
やや唐突さを感じたのですが、
今日はラストの違和感がきれいに拭い去れました。
上映時間が長すぎる、詰め込みすぎ、という声も聞きますし、
私も最初は混乱しましたが、
このお話は2部構成として見ると、
とても分かりやすく、またよくまとまっていると感じました。
第一部はまさにアドベンチャー・コメディ・ロマンスなんでもありの
ダイナミックなエンタテインメントそのもので、
無邪気といっていいほどの冒険譚。
第二部は、周囲の大人も含めて
(といいますか、大人たちはナラとの関係を通じて
オトナになっていっているように見えます)
降りかかる様々な災難を潜り抜ける中で
離別し、また再生してゆく物語。
個人的にはその点(二部構成)で
「風と共に去りぬ」を思い出しました。
全く違う点はレディ・サラが大変母性的であったところで、
家に帰ろう、という「オズの魔法使」のくだりが
物語の芯に組み込まれていることで、
最初はオーストラリア=オズくらいのイメージしかなかったのですが、
いろんな意味で仕掛け(オマージュなど)が
実はたくさんあったのかもしれないなあとも思いました。
「オズ」は一度しか見たことがないので、
詳しいことがわからないのが残念なのですが;。
(「風」も通しで見たのは2回くらいです・・・;;。)

また、初見時に「主役」として見た
ニコールとヒューの役柄の掘り下げが
なんだか中途半端なように感じたことについても、
ウェナムさん演じる悪役フレッチャーを
どうとらえていいやら(あまりにどうしようもなくただ悪い奴で)
やや途方にくれてしまったのも、
そもそも認識がズレていたからではないかと思いました。
このお話は最初のナレーションからもわかることではありますが、
(それでも混乱してしまいましたけど)
人間ドラマでも歴史ドキュメンタリーでもなく、
徹頭徹尾、「物語」なのでした。
「物語を語ること」の意味を語る物語。
ドキュメンタリーの手法を採らずに
「失われた世代」を美しい絵で描いた作品、と
とらえることができるように思います。
そして何より、エンタエインメント。
そういう作品だったように思いました。
真の主役のナラの強力な目力(睫毛力?)と存在感があってこそ、
この映画が成立したのだと思います。
何度も逆境に陥りながら
意外にけろっと前向きになる強さと子供らしい可愛らしさに、
ニコールと一緒に泣き笑いをしてしまいました。
歌で呼ぶよ、なんてあの目で言われたら
もう泣くしかないでしょう(そうか?)。

当時のオーストラリアの社会問題、
人種差別(白濠主義なんて言葉がありました)、
失われた世代の問題、
権力者に弱い警察機構(これはいいか)、
戦争の勃発と大空襲、
いずれもオーストラリアを語るために描くべきものではあり、
必要なだけ正確に取り入れられていると思うのですが、
どれも声高になることなく
極めて落ち着いたトーンにとどめられ、
通奏低音のように物語の背景として描かれていまして、
そこにナラと大人たちの物語が色彩豊かに浮き上がるように
強いて描きとどめた物語なのだなと思いました。
(日本軍の描写があると聞いて少々心配していましたが、
主にアボリジニの子供たちに対して行われた
非人道的な政策に焦点が当たっていたように思います。)
あれもこれも詰め込みすぎ、と言われる点については、
確かに省略こそされなかったものの
充分すぎる抑制をもって
物語の範疇にまとめたものだと思いました。
メインの大人たちの描写もまた
掘り下げすぎて物語のバランスを崩すことのないよう
ある意味ステレオタイプに留めてあるのかなと思えました。
それなら納得できますし。(←納得するために見ているわけでは;;。)
一方で、脇の大人たちの役者さんたちは
一度見るとしっかり印象に残ってしまうほど
それぞれが濃い方が多く、
一見ファンタジーのようなお話にリアリティを持たせることに
大きな役割を果たしているように思いました。
キング・ジョージはもちろんのこと(強烈なことこの上なし)、
飲んだくれ会計士とかドローヴァーの義兄とか
人情に厚い大尉やカーニーまでも
皆さんそれぞれに味も癖も厚みもあって
たいへん印象的でした。
なので、メインの大人たち
~レディ・サラとドローヴァーとフレッチャー~が、
むしろさらさらと描かれているのが
面白いといえば面白く、
重くなりすぎずに冒険ものとして見ることもできるわけですが、
改めて見てみると
ドローヴァーとフレッチャーは
とても対照的に描かれている気がします。
モノに縛られず物語を残すことを願うものと、
権力も家も欲しいものをなにもかも手に入れたいと望むもの。
結末も笑ってしまいそうになるくらい(笑いませんでしたけど)
見事に明暗が分かれてしまいましたが、
モノガタリとしてはこれでいいんだろうなあと思います(多分)。
もっとも一番気の毒なのはフレッチャーの妻ですけど。
なんであんなにいい人が。



物語と夢がなければ人は空っぽ。
物語を語るのが重要なのは
人は物語で繋がってゆくからだ。


語りのはじめと終わりはこの言葉で繋がり、
混血、クリーム色と呼ばれ
社会の中に居場所を与えられなかった少年は
充分な愛情を受け、勇気を学び、
物語の意味を学んで
自分の国の大地に二本脚で立つ全き人となる入口に辿り着きます。
出来すぎのハッピーエンドなのかもしれないけれど、
今の時代にこのラストがふさわしいという監督の談話に
私は納得しました。
<以前は社会派や厳しい内容のものがいいと思っていたけれど、
わからなくなってしまった。>
・・・というような女優さんのコメントを
どこかで読んだことがありますが、
ふとそんなことを思いました。
そういうものは必要なのだけれど、それだけではないと
この年になって私も思うようになりました。

また、映画を見ながら、
ずっと引っかかっているこの感じは何に似ているんだろう、と
考えていたのですが、
最後に近くなってきて、
「王の帰還」のホビット庄への帰還以降の部分に近いのかな
・・・という気がしてきました。
どこが似ているというわけでもなく
(強いて言うと俯瞰から地図になるところ?^^;)
こちらはナラの旅立ちは
むしろアボリジニの社会への帰還と復帰になるわけなので
エレッセアへの旅路とは全く意味合いは違うのですが、
静かな音楽に包まれたラストのシーンは美しく、
物語の終幕を気持ちよく見送ることができました。
(極めて個人的な感覚なのでスルーしていただくと嬉しいですm(_ _;)m。)


そんなわけで、いろいろ整理しつつ
なんとなく弁護?に走ってしまいましたが、
二度めにして、ああ面白かったなあ~と堪能することができまして、
もう一度見たいなあ、と思い始めました。
やはりヒューははまり役です。
ヒューの優しさが役ににじみ出ていました。
(この人は目に優しさが出ますから・・・。)
改めてサービスショットの多さにうなってしまいましたが、
遠目の絵もアクションも素敵。
バズ監督、キレイに撮ってくれてありがとうございます。
さて、問題はその時間を作れるかどうかです。
来週はダークナイトを見なければ・・・。

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